『ナヴァラサ』

リストトップ

「映画の背景をより詳しく知るために」
映画『ナヴァラサ』の原景
袋井由布子(ふくろい・ゆうこ)
和光大学オープンカレッジ非常勤講師



クーヴァガムの祭りにて。アラヴァンとの「結婚」で、信者たちは婚姻の印である黄色い紐(ターリ)を首に結んでもらう。(photo: Yuko Fukuroi)
気温は40度近くあっただろうか。ある年の4月、私は南インドの小さな村クーヴァガムで行われる祭りを目指し、サトウキビ畑の農道をただただ歩いていた。映画『ナヴァラサ』で主人公の少女が遭遇してしまったあの祭りである。現地で「アラヴァン・タライ(アラヴァンの頭)」と呼ばれるこの祭りには大叙事詩『マハーバーラタ』のあるエピソードが大きく関わっている。領地をめぐる激戦の中、窮地に立たされた一方の軍は勝利を祈ってアラヴァンという名の若者を女神へ捧げることにした。結婚を条件にアラヴァンは自らの死を快諾したが、結婚直後に未亡人となる婚姻を良しとする女性がそう簡単に見つかるはずもない。その時クリシュナ神が美しい女性に変身してアラヴァンと結婚、翌日、アラヴァンの命が女神に捧げられた。毎年4月中旬(ときに5月)に行われるクーヴァガムの祭りでは男性信者が女装してアラヴァンと「結婚」する。この擬似的な結婚式の翌朝、アラヴァンの体を象った巨大な山車が運び出されてくる。喚声をあげながら人々は山車にむかって花綱を投げかける。数千もの人々が一堂に大叙事詩の登場人物となってアラヴァンの死を再現する、その興奮と狂躁の渦にいつしか私も飲み込まれていた。


クーヴァガムの祭りへ来ていた男性。マドラス大学で英文学を修め、伝統舞踊もマスターしたという彼は女性ダンサーの衣装で華麗に踊りを披露していた。(photo: Yuko Fukuroi)
この祭りに来た人に、「なぜ祭りで女装するのか」と聞くと、「インドでは神に願いを叶えてもらうため、自分の大切なものを捧げたり、あるいは苦行したりする。この祭りでは女装がひとつの苦行と考えられている」という答えが返ってきた。このクーヴァガムの祭りに、いつの頃からかヒジュラが加わり、現在、祭りはヒジュラの集まる大例祭として広く知られるようになった。ヒジュラは半陰陽の人々とされるが、実際は女性としてのアイデンティティが強い男性、また女性に性転換した男性によるコミュニティで、彼ら/彼女らはカーストや宗教の枠組みを超えた共同生活を営んでいる(映画の舞台となっているタミル・ナードゥ州では近年、ヒジュラを「アラヴァニ(アラヴァン信奉者)」と呼んでいる)。ヒジュラは結婚式で子宝を祈ったり、雨乞いを行う等、インド伝統社会においては豊穰性を祈祷する職能者である。ただし、クーヴァガムの祭りでヒジュラが人々を祝福することはない。他の信者同様、ヒジュラたちはアラヴァンの花嫁として祭りにやってくる。祭りを来訪するのはアラヴァンの信者やヒジュラだけではない。ある男性は、「私は女性になるため、毎年、この祭りに来ています。この私の姿を妻や子どもたちは知りません」と、白粉を塗った顔と大柄なサリー姿で語ってくれた。祭りの変貌に伴い、祭りへ訪れる人々の目的も多様化している。しかし、女装という苦行を遂行し神に祈願するアラヴァン信者と女性になりたいという願いを祭りの間だけでも実現させる人々は、今の自分が置かれた状況に満たされない何かを持っているという点では通底している。


クーヴァガムの祭りにて。結婚式が終わった翌朝、アラヴァンが女神の生贄に捧げられる。アラヴァンを象った山車が人々の前に現われると、一斉に花綱が投げかけられる。(photo: Yuko Fukuroi)
映画『ナヴァラサ』に登場するガウタムもこの祭りを目指す。自分は男なのか女なのか、彼はいつも問い続ける。一方、叔父のガウタムを追いかけて旅する少女も、今の自分に居心地の悪さを覚えるひとりである。ある日、無邪気に暮らすこの少女に初潮が訪れ、彼女の成女式が盛大に行われる。月経というケガレを清めながら少女の多産を祈る成女式は南インドの伝統的な儀礼のひとつで、少女はウコンを混ぜた黄色い水で沐浴、花嫁のように美しく着飾られる。スクリーンでもその様子が紹介されているが、式典が華やかであればあるほど、主人公の少女の困惑が鮮やかに私たちの目には映ってくる。突然の身体の変化、自分を大人の女として扱いはじめる周囲の人々・・・・少女は新しい自分に適応できないでいる。そして彼女もまた、失踪した叔父を探しつつ、クーヴァガムの祭りへと導かれていく。旅の途中、少女は「第三の性」の人々、そのきらびやかな外見とは裏腹な深い悲しみと苦悩を覗くことになる。

インドではイギリス統治下に同性愛者を処罰の対象とする刑法が導入、この刑法は今も機能しつづけ、ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダー等、セクシャル・マイノリティとされる人々への風当たりは厳しいままである。また売春に関わるがゆえ社会悪の烙印を押されて生きるヒジュラも少なくない。映画の中でひとりのヒジュラは、「人は私のことをアリとかオンバドゥとか言って罵る」と怒りをあらわにする。タミル語でアリとは「男でも女でもないもの」、一方、数字の「9」を意味するオンバドゥはヒジュラを揶揄する隠語である。9は10にひとつ欠ける、つまり彼ら/彼女らは「不完全な存在」と見なされているのである。毎日のように「9」と罵られる人々、その内面を克明に描き出した『ナヴァラサ』。ここでひとつの疑問が沸く。どうしてこの映画はナヴァラサと名づけられたのであろう。


クーヴァガムの祭りにて。アラヴァンを象った山車。(photo: Mathew Varghese)
ナヴァラサとは「9つのラサ」という意味のサンスクリット語である。ラサは元来、「味」とか「エッセンス」を示す語であったが、やがて芸術鑑賞の際に生まれる感情を指すようになり、インドの芸術論では恋、滑稽、悲しみ、怒り、勇猛、恐れ、嫌悪、驚き、静寂が「9つのラサ」として分類されている。この映画は、「第三の性」の人々の多様な側面を描くことで、観客に「9つのラサ」を享受させるよう図ったのであろうか。あるいは「9つのラサ」と同様、人間の生き方やセクシャル・アイデンティティは多彩であると語りたかったのであろうか。今、ひとつの奇妙な符合に息をのむ・・・・『ナヴァラサ』は「9つのラサ」であると同時に「9(オンバドゥ)のラサ」なのではないか・・・・「不完全な存在」として生きねばならない人々が、人生という舞台で感受するラサ、それが『ナヴァラサ』というタイトルに隠されたもうひとつの意味なのではないか・・・・。このようなトリックを監督自身が意図したか否かは不明である。またこれが単なる深読みと言われてもしかたがない。それでもなお、私は「9」の謎解きから逃れることができない。そして、再び私はクーヴァガムの祭りに引き戻されていく。アラヴァンの死を見届ける数千もの人々。女装した男性。ヒジュラ。男と女の境界線が消滅した、あの恍惚の祭りへ。

<<作品情報へ戻る

2007年3月、ユーロスペースにてモーニング&レイトショー公開
Copyright (c) 2004 office sanmarusan All Rights Reserved.